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特集記事

第87回 リクリエイティブアート 対話の杜「哲学カフェ 最近感動しすぎじゃない?」


これまで「絵画教室」「哲学カフェ」「対話型アート鑑賞」他カテゴリーごとに回数を記録していましたが、カテゴリーが増えてきたので全体の回数で記録していきます。すると今回87回目!

9月27日。足利。本経寺。第87回 リクリエイティブアート 対話の杜『哲学カフェ 最近感動しすぎじゃない?』を開催しました。今回試しに金曜の夜の開催にしてみました、ら、参加者3名!しかし開催しました。3名だったのでその場で話し合い、屋内で行う予定だった対話を急遽境内に変更。焚火を囲んでの対話となりました。火おこし、椅子のセッティングを協働で行い、玉ねぎを火に放り込んで食べたり、火が弱くなれば対話の途中で薪をくべたり。この過程も充分対話かな。テーマは「最近感動しすぎじゃない?」。3名だったのでじっつくりと対話ができたと思います。以下所感ですが、印象に残った内容を挙げてみます。

●感動が溢れすぎているのではないか?本当にそれは感動なのか? ●溢れている感動は仕組まれた感動である。しかしそうではなく偶然に出逢う感動というものもある。●しかし、仕組まれた感動でも確かに感動してはいる。感動した!という一点においては、仕組まれていようがいまいが優劣はない。●仕組まれた感動は仕組まれているという認識の上でも成立している。そのうえであえてその商業的・政治的思惑に乗った感動である。●すると仕組まれている事を知った感動と、偶然に出逢う感動があるし、その他にも、自ら仕組む感動というのもあるのではないか?例えばそれは、感動を求めて感動を得るための計画を自ら仕組む場合。つまり、目標を立て達成のための計画を立て、達成するというような場合はそうであろう(ウルトラマラソン完走の感動を得るための計画など)。●感動とは自分より量・質的に大きなものに、自分の安全を確保した状態で対面した時に感じる感情であろう。例えばモンゴルの草原に寝転んで満天の星空に包まれる感動は「草原に寝転んでいる」という位置を保障されている。この場合は感動が成り立つ。しかし宇宙空間に放り出された宇宙飛行士の場合、身の安全が保障されていない。この場合満天の星空は自信を滅ぼす脅威でしかない。●いや、保証されてしまったら、動物園で檻越しに動物を眺めているようなものではないか?感動は身の安全が保障されるかされないかのぎりぎりの部分に成立するものかもしれない。●では映画館で映画のストーリーとは分離した客席から鑑賞していて感動するのはなぜか?●映画のストーリーはそこに没入させるような演出が館内に仕組まれているから、安全を保障されていても、バーチャルな効果として、ストーリーにぎりぎりに対面しているというシュチエーション疑似的な成立に成功している。そして鑑賞者はそれを知って映画館に足を運ぶ。●それは感動の消費ではないか?感動中毒といってもよいし、より強い感動を求めるようになるのでは?●感動するには自我を脱ぎ捨てて「私」ではなく「人間」の本質の次元(唯識の阿頼耶識のような)にまで下りていきそこに触れることが要件ではないか。●いや、自我は保持されなくてはならない。自我を脱ぎ捨てるとは、サッカーのフーリガンのように集団的な熱狂に自我が溶解してしまうようなものにはならないか?「人間」の本質に対してもそこに自我が没入するのではなく、あくまで対峙することで、自我の特殊性と人間の本質の普遍性の落差を身に負う事で、そこに「感動」が生じるのではないか?俗的に言えば、私の自我はこんなにも矮小であったのか、という小ささを、その小ささを保持したまま、保持する故に人間の本質の大きさを理解する・・・というような。●感動は疲れる。その時は高揚しているからいいけど、後から考えると頻繁に求めたいとは思わない。●それでも求めてしまうのは、感動が消費の対象となっているからではないか。そして感動の強度にマヒしてしまっている。結果感動インフレになり、感動の量と強度は増しても質は低下してしまっているのでは?

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