ケア「と」倫理
ケア「と」倫理
キュアは「治療」をする。リハビリ職は失われた機能の「再獲得」を試みる。ではケアは?ケアとは思うにその人の人生を共に歩む。共に歩みまたその人生を完結させる「リ・クリエイティブ」な関わりの総体であろう。然るに人生を丸ごと指南する専門性など、ケア職が聖職者でもない限り担い得る由もないのではないか?そう。だから、ケアの職とは高度な技を駆使して業務を遂行するような専門性とは馴染まない。ケアする者は常に言葉に詰まり、態度に淀みながらもながら相手に関わり、ありあわせの事柄を寄せ集めて何とか支援を遂行しようとする。そのたどたどしい非専門性こそがケアという「配慮・気遣い」の本質である。
これをブリコラージュと言ってもよいかもしれないが、ブリコラージュが「器用仕事」の意であり生活の達人の語感を伴うものであるからには、私はこれにも違和感を覚えざるを得ない。何故ならばケアとは、到底器用に課題を達成できないという事を前提として尚、課題に立ち向かうといった、そんな格好悪く泥臭いものであるのだから(人の生活や人生にコミットするとはそういう事だろう)。その格好悪さはしかし、ケアする者がケアされる者と共に、互いの人生を迷いながらも歩み抜く事あり、それはもはや職とは言えない、人の在り方の実践の要諦でありまたそのstyleでもある筈である。
ところで倫理学に「ケアの倫理」というものがある。まだ新しい領域であり1971年のミルトンメイヤロフの『ケアの本質』を先駆としてキャロル・ギリガンの『もう一つの声』から始まるとされるものである。種明かしをすれば上述は専門用語を全く使用しなかったものの、このケア論に少しだけ私の所感を交えたものである。そもそも伝統的倫理学は、善や正義、義務や徳を論じる学問である。介護福祉士の倫理要綱もこれを踏襲している。しかしケアの倫理は新しく50年にも満たない。それ故か倫理要綱にはその要諦が十分に書き込まれているとは言えない。倫理要綱の中身は介護士の守秘義務や誠実さといった職業的な倫理と、自己決定・自立支援といった権利擁護の倫理でありそれは伝統的倫理学の枠内に収まっている。しかしケアの倫理によれば「道徳の問題は競争関係にある諸権利ではなく、むしろ葛藤し合う諸責任から生じてくるものであり、その解決には形式的で抽象的な思考よりも、むしろ文脈=状況を踏まえた物語的な思考様式が要求される」。然るに実はこの部分は、学術が倫理要綱のような形で主導するものではなく今家庭や施設のケアの現場で、現在進行形で実践されている部分なのではないだろうか。ならば、それを明文化して自覚する事を、研究者や研修講師に自覚させてもらうものとして上意下達に任せればよいとするならば、それ自体がケアの倫理にもとるものである。
ちなみにメイヤロフとギリガンのケア論とケアの倫理はその後フェミニズムの立場から、男性的な正義と義務の倫理から、文脈と責任の倫理としてのケアの倫理を女性の倫理として弁別する事は、ケアの担い手である女性の役割というものを倫理的に固定するものではないのか、といった批判も上がっている。だからこれが絶対に正しいと言いたいのではない。しかしケアに携わる時、まさにケアについてのこういう考え方もあるのだという事は、もっと広く周知されてもよいし、研究者に理論化してもらい講師に啓蒙してもらうのではなく、ケアに携わる者が現在進行形の実践の中で関心を深めていくべきなのではないかと私は思います。
参考文献
『もう一つの声』キャロル・ギリガン 川島書店
『ケアの本質』ミルトン・メイヤロフ ゆるみ出版
『現代倫理学の冒険』川本隆史 創文社
『道徳を問い直す』河野哲也 ちくま新書