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特集記事

共同企画「歩きながら考えるのとずっと座って考えるのはどう違うのか?」In 東村山 所感と報告

東京都東村山市で対話の実践をしている「デモクラシーcafe@東村山」との共同企画を開催しました。東村山市トトロの森の八国山や商店街などを歩きます。そして歩いた後にカフェで対話をします。テーマは「歩きながら考えるのとずっと座って考えるのはどう違うのか?」

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日時:5月19日(日)集合時間12:45(時間厳守)*雨天決行 開始13:00-16:00

集合場所:西武新宿線東村山駅改札 散策コース:東村山駅改札→八国山緑地歩き→商店街→カフェ(天候等で変更すること有り) ゲストファシリテーター:岡村正敏さん 足利市在住。足利で哲学カフェ「対話の社」を主宰。介護施設でケアと生涯学習をアートで結ぶ活動をしている。リ・クリエイティブアート主宰。 参加費:500円+ドリンク代 要申込:定員14名 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以下所感と報告です。

「歩きながら考えるとずっと座って考える事はどう違のか?所感と報告」

●概要

東村山駅から歩いてトトロの森へ。トトロの森を散策。ここまでは話しながら移動。

トトロの森から東村山駅隣接のカフェへ移動。ここは無言で歩く。その後

Caféにて全員で座って対話を行いました。

テーマは「歩きながら考えるとずっと座って考える事はどう違のか?」。

このテーマについて、トトロの森を歩きながら考え、対話しながら歩いたことを振り返りながら、対話を行いました。

今回「考える」を取り巻く状況を概観すれば、

・話しながら歩く。2名~3名での移動しながらの対話。

・黙って歩く。1人で移動しながらの考察。

・座って話す。10名での移動なしの対話。

でありました。

●参加者の声

多分に私の主観が入っていますが、参加者の言葉を拾ってみました。

・喫茶店で楽しく話している人は多いが、話しているが考えているわけではない。

・街中で歩きながら話すのは危ない。

・トトロの森の散策では、考えるという事はあまりしなかったが、会話は弾んだ。景色が変わるので話題に尽きない。

・トトロの森を歩いていて、自然が好きなのでそういう部分に目が行く。相手や自分の思考に関心が向かうのでなく、取り巻く環境に関心が向いた。

・歩きながら考える事は出来た。歩いていたが景色に関心はいかず、思考に集中できた。

・歩くことで思考が促進されるかしないかは、歩くスピードにも関係する。

・一緒に歩く人によっても、思考に向かうか、外の環境に関心が向かうか、相手とのおしゃべりになってしまうかは、全然違う。共に考える、には相手を選ぶ。

・歩きながら考えると直観は冴えるがひらめきには向かない。ひらめきは座って一人でじっくりかんがえるほうがよい。

・考えるとは、自分の記憶のストックと、今話している内容を照合し、内容に適うものを選択する選択の過程が考える事のような気がする。

・考えるとは目的に向かって判断していく過程。

・考えるとは解釈に近い。

・考えるとは物事を抽象する過程である。

・言葉を用いなくても考える事は出来るのか?数学や論理記号の操作は「言葉」は用いない。しかし「考えている」。また言葉を用いていても考えてはいない事も多い。おしゃべりは考えているとは少し違うし、鉛筆を見て鉛筆だという事も違う気がするし、文字を黙読したり、音読することもそれだけなら考えているとは言えないと思う。

・身体が考えるとは本当にあるのか?

●所感

歩きながらの対話については、皆で散策する機会はありそうでないので単純に楽しめました。もっとも今回は歩きながらと座って考える事の比較を実際体験してみて考えるというものであったので、その点での私の気付きを以下纏めてみます。

単純な楽しさという点では上述したように散策しながら「歩きながら考える」のは楽しめました。しかし対話であったかは疑問です。確かに歩きながら思考は促進されたし、話も弾んだのですが、よくよく振り返れば歩くことの成果は「共に歩いている」という「感じ」だったと思います。それは「歩く」行為を共有する事が、一緒に歩く人との親密さの形成に役立つものであった事が、とても大きい。このことは反面、行為の共有を強調しすぎる事で親密さが対話を侵害する可能性もあるという事でもあると考えます。

対してカフェでの座りながらの対話は「行為の共有」というよりも「場の共有」であったように考えます。

では「場の共有」と「行為の共有」はどう違うのか?この辺りを次に考えてみると、

A 行為の共有は相手と直接的な共感に近いものがある

B 場の共有は場によって相手と私が包摂されている。どちらかといえば場に共感する事で相手を間接的に理解している。理解しているが共感はしていない

この違いを感じました。

ではABの違いをもう少し掘り下げてみると、どうなるか?

A 行為の共有は時間的なあなたと私の共感であり、貴方と私の「時間的な行為のうつろいの共有」であり、貴方と私がその都度重なっているという気分的共感が重視される。もしくは行為の気分的共感によって貴方と私という、行為の主体が排される

B 場の共有では、貴方と私が第三項である場に包摂されている。私はあなたに親しみ共感するというよりもまず場に親しみ、場と一体化し、そのことで同じく場に馴染みこんでいる貴方と出会う。ただしこの出会いは共感とは異なる。私と貴方はあくまで場に馴染むのであって私と貴方が馴染むのではない。そしてまた、場に対するこの馴染みは空間的なものであり、時間的な行為の共有とも異なってもいる

結論

ずっと座りながら考える。そして対話が成立する時とは、「場と共感する」ことで「貴方との共感」が排され、私と貴方が絶対に共感し得ない部分が浮かび上がることによって、初めて貴方と私の「非共感的対話」を浮かび上がらせることが出来るのではないかと、私は考えます。この辺りが歩きながら考える事とずっと座って考えるとはどう違うのか?に対する私の答えであります。                        2019年5月29日 岡村正敏

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