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第11回対話の杜「哲学カフェ『ハゲワシと少女』」 in 足利 at 本経寺

第11回対話の杜「哲学カフェ テーマ『ハゲワシと少女』」

12月2日。足利市のお寺「本経寺」にて第11回対話の杜「哲学カフェ テーマ『ハゲワシと少女』」を開催しました。参加者計13名。以下対話の概要を、多分に主観が入っていますが概要を記します。

テーマ『ハゲワシと少女』。

●「ケビン・カーターへの批判・・・何故撮影する前に少女を助けなかったのか?の論争を振り返ってみても、何故ケビンが批判されなければならなかったのか?私にはわからない」

●批判した人たちはクリスチャンが大方だったのでは?または一部の批判が誇張されて論争にまで発展してしまっただけ。必ずしも大多数がケビンの行為(撮影)を批判していたわけではない」

●「批判は、ケビンがこの写真でピュリッツァー賞を受賞したことへの妬みからくるものではなかったか?」

●「ケビンが撮影を優先したことについては、報道カメラマンとしては当然の事なので職務を果たしただけ。批判の対象にはならない」

●「職務、とはいっても報道カメラマンによって見解は違う。実際戦場カメラマンである渡部陽一は自分だったら少女救出を優先するといっているし、宮嶋茂樹は少女救出よりも事実を冷徹に写し取ることに徹する、と言い切っている。見解は180度異なっている」

●「しかし渡部陽一は別に、自分が戦場カメラマンになった理由として、戦場という非日常間・未知の領域へ踏み込む高揚感や歴史的瞬間に立ち会っている!という特権性を挙げてもいる。そこから透けて見える事はつまり、渡部陽一にしろ宮嶋茂樹にしろ、報道・戦場カメラマンの定義に関する言明は、ポリティカルコネクトレス(宮嶋の場合はそれを反語的に使用しているだけ)ではないかという事だ」

●「報道、は客観的であるべき。その意味でケビンが客観性を重視して、事実を世界に知らしめる使命感をもって、少女の救出より撮影を優先したとするならばそれは理解できる。しかし事実ありのまま、としての客観性などありうるのか?写真は事実を映すと思われるが、実際は撮影者の主観が、着眼なり構図なりに入ってしまっている」

●「それでも客観性がありうる可能性はある。それは我を忘れて戦場の現場を走り回りシャッターを切りまくり、より強度あるシャッターチャンスを追い求める姿勢においてのみ、在りうるのではないか?そこには倫理やイデオロギー、ポリティカルコレクトネスが介入する隙はない。そこではある意味忘我状態にて主観が消失している。撮影者は只、今をとらえる一個の無機的なカメラアイになっている」

●「もしかして、であるが、ケビンが一個のカメラアイになりきれた結果としてこの写真を撮影したのなら、人道か報道か?の非難の矛先はケビンではなく、ケビンの写真を買い上げ雑誌に公開した出版社側に向けられるべきではなかったか?」

●「しかしケビンにも打算はあった。実際少女とハゲワシを前にして、良い構図を求めてシャッターを何度も切っている。またはっきり言ってケビンに才能があったとはいえず、カメラマンとしての職に生活が追い詰められてもいた。だからケビンにも有名になりたい、とか、そのためにインパクトのある写真を撮りたいという欲求はあったはず」

●「むしろ報道か人道か?の論争に関しては、写真を受け取る側、見る側に責任が問われるべきではないか?今、現在においては写真が真実を映すツールであるという「信仰(!)」は失墜している。真実はあるかもしれないが認知できず、せいぜい主観相互の相対性があるだけである。ではその相対性においての私たちの責任とは何か?が問われなければならない。情報のリテラシーが求められるとはいってもそれは真実を言い当てる事には貢献しない。むしろ多様な解釈の相対性を保障する概念でしかない。それは良いとして、そこに欠けていることはやはり解釈の主観性が表現された時の、責任の問題ではないか」

●「受け取る側の責任、という点では、ケビンの写真に抗議した人たちはやましい心があったのかもしれない。つまり、より強いインパクトを求める、より悪のイメージの誘惑に親しんでしまうといった、公言できない心性を否定するための免罪符として、ケビンの行為を声高に批判したのではないか?人には悪を求める心性は絶対に合ってそれは否定できるものではない」

●「しかし現代では皆報道カメラマンのようなものだ。誰もがSNS写真をUPし世界に拡散することができる。では誰もがカメラマンである状況下において、報道・戦場カメラマンとう職であるという事はどういうことなのか?」

●「報道・戦場カメラマンという職は、結局イデオロギーの道具でしかないと思う。それはかつて戦時下において戦争画が報道であり且つ翼賛の手段であったという事や、社会主義リアリズムが社会主義のプロパガンダとしてのツールであったと同等な意味で、民主主義・人権思想の啓蒙の道具として、そうであるのではないか」

●「ケビンの自殺に関しては、報道か人道か?という論争に巻き込まれ批判の的になったことだけが原因ではないだろう。実際この写真の撮影された状況は、すぐ隣に少女の母親が食料の配給を得るために並んでいた。少女は荒野で一人孤独に死に往っていたわけではない。また少女を救おうとしたならば、逆にそばにいた母親から不審がられて抗議されていたかもしれない(というその場にいた第三者の証言もある)。しかもハゲワシは死肉しか喰らわないので、少女の死を待っていたのではなく、その先に本当にあった残飯の山を狙っていたのかもしれない。そのような写真だけではわからない事実を総合すれば、やはりケビンが少女を助けずにせいぜい5分くらいの間、撮影に専念したことはそんなにもとがめられるべきであろうか?ケビンは報道カメラマンのジレンマもよく周知していた。それは人々が求める真実はよりインパクトのある(≒残酷な)写真を皆が求めているという事である。事実を伝え、虐げられた人々がいる事を世界に知らしめる、という大義とこれは明らかに矛盾する。職としてのジレンマ。さらに紛争に巻き込まれた仲間の死。そこから逃れるためのドラック中毒。そしてピュリッツァー賞受賞後の批判の嵐。どれが決定だとは言えない。すべてが要因。それがケビンの自殺の真相ではないか」

●「この写真が論争となった背景には、写真は事実を写し取るという信仰が健在であった時代であったことはよく考えるべきであろう。しかしこれは今は通じない。写真も手軽に加工でき、誰もが加工された「嘘」のカメラマンでありうるという時代、において、では報道・戦場カメラマンという『職』とは何であるのか?このことをさらに良く考え掘り下げていく必要はあるのではないだろうか?」

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