第7回対話の杜 「絵本哲学カフェ 100万回生きたねこ を読む」
2018年8月12日。第7回対話の杜を群馬県太田市にあるギャラリー&カフェ「アトリエみちのそら」(https://michinosora425.jimdo.com/)にて開催しました。参加者10名。テーマは「絵本哲学カフェ『100万回生きたねこ』を読む」。絵本作家を目指している方、児童文学を書いている方、読み聞かせを行っている方等、絵本に関心がある方が多く集いました。哲学カフェを知っている方はむしろ数人。しかし活発に意見が交わされ、哲学カフェらしい「場」となりました。
また「対話」そのものへの気付きという観点からは、参加者の一人の方からこんな話がありました。「今回絵本哲学カフェに参加する前に、哲学的なことがちゃんと話せるのか不安あり事前に息子と100万回生きた猫について話し合った。息子と哲学的なことを話し合う機会など普通もてないので、よかった」
企画した甲斐があった、と思いました。
以下多少私の主観が入っていますが、参加者の声を拾ってみましたので記してみます。
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「100万回死んだトラ猫は白猫と暮らすようになったが、いつまでも一緒に生きていたいと思う事によって、本当に死ぬことができたのだろう。それは本当に生きたことでもある」
「トラ猫は絵本の最後で決して生き返らなかったが、それは生き返ることを自らの意志でやめたのだろう。それまでトラ猫は常に誰かの猫でしかなかった。または自分自身の猫でしかなかった。しかし誰かの為の猫になる事(白猫や子猫たちの為)で、初めて自分で生き方を選ぶ猫になり得たのではないか。それは同時に自分で死に方を選べるという事でもあったのだと思う。だから自分の意志で生き返らなかったのだろう」
「猫は死に際を見せないという。自分で死に方や死に場所を選ぶ。この絵本は『100万回生きた犬』でもよかったのに『猫』であったのは、そういう猫の特性も考慮されていたのではないか」
「前半トラ猫の過去の飼い主達の話が続くが、この飼い主達とトラ猫の関係も掘り下げて考えてみる事ができるのでは?後半の白猫との関係が焦点になりすぎていて、物語の前半と交換の関係が薄い気がする」
「その点にはこんな見解もある(ネットでのレヴューから拾った見解という事を断ったうえでの発言)。100万人の飼い主に愛されたトラ猫は飼い主が嫌いだったが、後半白猫の死の際に100万回泣いている。それは自分を愛してくれた100万人の飼い主への謝罪でもある。そういう点で前半後半はちゃんとつながっている」
「トラ猫の自慢話に白猫は『そう』としか応じなかったがトラ猫の『そばにいていいかい?』の問いかけには『ええ』と応えた。それぞれの心境の変化があるのでは?」
「白猫は実はトラ猫を品定めしていたのでは」
「白猫は総てを受け止めるような『自然』の象徴だったのではないか?総てを受け止めてもらえる事で、トラ猫は自己中心性を克服することができた。総てを受け止める『自然』とは総てを差別なく受け入れてくれる『死』でもある」
「子どもに『100慢回生きたねこ』を読み聞かせると文章より絵に関心が向かい「これ何?」と聞いてくることも多い。あと大人は、最後決して生き返らなかったトラ猫の『死』を注視するが、子供はトラ猫の毛並みの力強さやギラギラした目つき等、描かれた『生』の部分に関心を持つ。『この猫すごいね!』と」