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特集記事

第5回対話の杜「哲学カフェ ケアされるとはどういうことか?」

7月8日(日)。第5回対話の杜「哲学カフェ ケアされるとはどういうことか?」を東京多摩霊園駅にあるコミュニティカフェ「FLAT STAND」にて開催しました。

「ケアされる」という事についてさまざま意見が交換されました。私としては対話を通じて新しい「ひらめき」があってとても有意義なものになりました。

以下多分に主観的ですが具体的な発言を拾ってみました。

「ケアする側、例えば介護職はケアをすることで承認欲求を得ていることがありそれに気が付かないことも多い。ケアしてあげているという事でケアされる側や、第三者に承認を無意識に求めてしまっている。それによってケアされる側をケアされる者としてどこまでも見てしまい、依存を要請していることでもあり、結果として自立・自律を妨げてしまっている」「しかしケアするものの自己満足と、ケアされるものの依存の欲求がマッチすることもあるのではないか?自立・自律を求める方が全てではないしそれは強制でない以上、マッチングはありうる」「ケアされる事は負債をため込む事ではないか」「ケアされるものはたいがい有難うを言い続けなければならない。ケアされたという借りができる。その借りを返すことができないのは心の負担であろう」「ケアすることはケアされることでもあり、ケアするものの成長につながる、というケアの思想もあるが、そう考えると本当だろうかと疑問がわく。ケアされたものは必ずしもケアしてくれたものに返礼が出来るわけではないから」「ケアされたという心の負債をどのように処理するか、という事に配慮(=ケア)する事もケアであろう」「ケアを贈与論的にとらえ返すという事」「ケアには一人称のケア、二人称のケア、三人称のケアがあのでは」「介護ロボットにケアされるのはどうか?私は嫌」「私はケアされるという心の負債がないからロボットでもいい」「ロボットの方が良い場合と人が携わるべきケアがあり、区別をつける、使い分ける事が重要」「ケアが心の負債になる、という事はどのように解決するべきか」「恩送りという考えに近い」「心の負債になる場合は恩を送り返したり、別のところへ送り出すことができないからだから、恩送りがスムーズにいくような環境設計をすることが必要」「恩送りがスムースに循環することが、安心できる生活ではないか。それはQOLといってもよいかもしれない」                   2018年7月9日 

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