第6回対話の杜 IN 足利「哲学カフェ テーマ 今!い暮らしとは?」を開催しました
- 2018年7月7日
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第6回対話の杜 IN 足利「哲学カフェ テーマ 今!よい暮らしとは!」を7月7日、足利市の国宝鑁阿寺西門前にあるカフェ「八蔵」(とその隣接スペース「西門」)で開催しました。参加者12名。ファシリテーター2名(交代)で行いました。「ケアと生涯学習をアートで結ぶ」活動の一つとしての「対話」の実践と位置付けています。当然市民活動として、という事ではあるのですが、しかしこれ、もう一つの動機は自分の居場所を自分で作るという事であったりもします。その意味では当事者。色々考え様々話し合える、それが許される場を作り且つ守る。自分のためにもそうする。という意味での「対話の杜」。以下所感を記したいと思います。
●足利で初。しかも哲学カフェを知らない方の参加が3分の2以上あったにもかかわらず、活発に意見が交わされた事に驚きました。特に地元で主催者(私、岡村)の縁からではなく、純粋に知的対話を求めて参加された方が数名おられたことは今後足利で対話イベントを継続するにあたって明るい見通しを与えてくれるものでした。また後半のファシリテーションをお願いした清水将吾さんの、哲学用語は言うまでもなく哲学者の名前すら出さずに、徹底して日常の言葉と対等な姿勢で進行を務められていた事には、学ぶ事多くありました。大まかな対話の流れを具体的な発言と共に記してみます(主観的であることはお許しください)。
「テーマにある『今!』とはどういうことだろうか?」「未来を夢見る今もあるし過去にとらわれた今もある」「しかしここでの今とはまさに『今!』としての今ではないか?」「今まさに『今』である、とは単なる瞬間ではなくて、過去を引き受け未来を望む事の総合が『今』に集約されているような『今』だろう」「その『今』において『よい暮らし』とはどういうことなのか」「留学生など外国籍の方と接することが多いが、彼らは日本で生活しているにもかかわらず、異質な目で見られている。受け入れてもらえない事実が実際ある。それが『今』でもある」「だからよい暮らしとは異文化を受け入れる=承認するという事でもあるだだろう」「異文化を受け入れる事は理想としては素晴らしいが、頭でも求める理想と実際直面して感じる受け入れ難さのギャップというものは確かにある。それを無理に理想でねじ伏せるのは生きずらさが増すだけではないか。身体的な許容限度の事実があるのだという事も重く考慮しなければならないのではないか」「異文化だけでなく、もっと身近な家族や職場の中にも互いの違いを認め合えないという事は多い。同じ日本人なのに」「同じ・・・。同じだからこそ近親憎悪のような形で互いの小さな違いを相いれない異質性にまで拡大してしまうのではないだろうか?同じ日本人。同じ家族なのに何故?というように」「私は自分の子供は家族であるけれども同じとは考えていない。家族だけど違う個人として育ててきた」「よい暮らしとは、互いの違いを承認できる暮らしという事ではないか」「これまでよい暮らしという論点から話が広がり深められていったが、私はそれは『よい生活』の話ではなかったかと思う。「『よい生活』と『よく生きる』という事は違うと思う。『よい暮らし』とは生活の違いが個人レベルからの相互承認によって保証されているという事の結果『生きる事の善』に至るようなもの」「承認、というけれどもそれは異質性に敏感になるという事でもあると思う。貴方と私は絶対に違うという相いれなさは、受け入れがたい『恐れ』でもあるしそれが前提となって初めて理解しがたい他人を尊重するという事が可能になるのではないか」
2018年7月7日 岡村正敏








































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