第3回対話の杜 「介護・と・施設」
4月14(土)。新宿高田馬場にの「人生カフェ」の場を借りて対話のファシリテーターを務めさせていただきました。テーマは『介護「と」施設』。https://www.facebook.com/events/1625782267459666/ 以下具体的な発言を記してみます(多分に私の主観によっている事はお許しください) --------------------------ーーーーーーーーーーー ●在宅でも施設でも介護は人手が足り無い事が虐待や介護の質の低下になっている。●人手が足りる為には十分な給料が払えなければならない。●しかし処遇改善などでせいぜい1万~2万給料が上がったからと言って平均給与と10万の差があるという事実は大きい。1万~その程度で介護に質は変らない。●ならば介護保険に頼らなくても個人で介護士を十分な給料を払って雇えば質は保てるだろうか。それも怪しい。●介護の質の問題は給料や人手の問題ではないのではないか?人手が十分に足りても十分なケアが提供される保証はない。●介護士が足りれば介護現場のストレスの量は減るだろうがストレスの質は変る事はない。問題は感情労働のストレスの質に耐性のないタイプの人達が介護士として現場に参入してしまう参入のシステムが原因ではないか(それを作ったのは介護保険制度)。これが介護に適さない人が現場に残り適する人が出ていかざるを得ない業界の「風土」を形成してしまっている。この「風土」をどうやって変えていくかが重要。●今おそらく介護やケアに真剣に取り組もうとしている者は、地域のコミュニティや介護保険外のインフォーマルな実践の方に活動の場を求めているような気がする。 ●家族での介護にしろ介護士による介護にしろ思想がないと介護は出来ない。「死」に対しての考えを深める事。●何故高齢者をケアするのか?長生きさせるためか?長く生きる事に価値はあるのか。●弱者という言葉を使うならば高齢者は限りなく出来なくなっていく存在。限りなく弱者になっていく。●弱者を強者の土俵に引き上げることが介護やケアの目的ではない。●弱者は互いを補い合うことが出来る。そういう相互の結びつきが価値だろう。それはお互いに結びついて生きる事の価値であり、強者の自立に対峙する価値である。●しかしそのような関係性に生きる事は本当に価値なのか。●ならば総てを支え補ってもらわなければならない意識のない植物人間は生きているだけで価値があるのか。●確かにそこに在るだけで価値があるという考え方もある。そこに在るだけで関係は生じる。それが価値?●しかし家族の負担だけが増えるという負の関係であるのでは?●そもそも意思決定や個人の自律は日本にはなかったものだ。そこで日本の価値として関係性に生きる事や命の尊さを持ち出すことは、植物人間を例にする負の関係性を、義務として暗に強要する事になってはいないのか?