『服従』ミシェル・ウェルベック著 読解:朝さろん参加にて
11月5日。東京渋谷。読書会朝さろん参加しました。今回はミシェル・ウェルベック著『服従』です。欧州の状況論がテーマとも読めるし、知識人批判がテーマとも読めます。実際ネットの感想はそのどちらかがほとんどでしたが、私はちょっと違った観点から読んでみました。この小説の最大のテーマは「ジェンダー」であるのではないか、と。私達にとって真に問われなければならない事とは、「性とは何か」という事、つまり「ジェンダー」である(付言すればLGBTにみられる性の多様化とは、多様化自体が目的なのではなく、それは「ジェンダー」という、おそらく最大の異文化コミュニケーションを、それを存在論として問う事であると思います)。それが私の『服従』の読解でありました。「支配/被支配」の関係はエロスの関係であり、無効には決してできないものだと私は思います。それは「自由」の条件であり「存在」の条件でもあると思います。つまり「支配/被支配」の関係をどこかで保たなければ「自由」や「存在」を実存として引き受ける事は不可能なのではないだろうか(例えばキルケゴールは神との絶対的な距離を絶望する事に裏打ちされる「信仰」として。サルトルならば「まなざしの相克」として)?『服従』の主人公フランソワは「自由」「平等」「博愛」のもとに保証された人権を女性にも求めている(そもそも最初期の人権思想は、「自由」「平等」「博愛」の対称性を、植民地支配を無謬とする事で、その非対称性によって保証していた。第2次世界大戦後、植民地が独立し自立し、人権思想が啓蒙された後の現在、その対称性を保証してくれる非対称性をどこに求めたらよいかが不明であることが、即ちフランソワのニヒリズムの正体であるのだろう)。ミリアムとの関係はそういうものだ。それはサルトルとボーヴォワールの関係に近いものでもある。つまり男性としての関係であり友情である。ミリアムは自立した女性である故に「男性」として、フランソワと対等の関係にある。そしてそれ故に二人の関係には子供をつくると言う考えが微塵も見られない(幸福な家庭は求めはしてもそれは必ずしも子供をつくる事とは一致しない)。更に言えばそれ故にフランソワとミリアムの性生活は快楽を求める単なる遊戯に過ぎない(つまり本当の意味でのエロスやフェティシズムという性的幻想=文化ではない)。つまりフランソワとミリアムの関係は対称性なのである。しかしフランソワはどこかで非対称性を求めている。求めざるを得ないことに気付いている。それは最終的に彼のイスラムの本質である純粋な神への「服従」(教義への服従ではない)として結果する。換言すれば神への服従とはつまり非対称性の受け入れであり、エロスの復権でもある。そして非対称性を保持する事が実は「自由」の条件でもある;・・・。対称性は求められるべきである、とは私は思います。しかし非対称性へどう「落とし前」をつけるかは、対称性によっては成し得ないと思います。非対称性への「落とし前」は非対称性によってしか成しえない。それは、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に通じている。ミシェル・ウェルベックの『服従』の真のテーマを私はそこに見たいと思います。