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特集記事

「堕落」について:『3月の5日間』(『私たちの許された特別な時間の終わり』所蔵 岡田利規 新潮文庫)を読んで

  • 岡村正敏
  • 2017年10月28日
  • 読了時間: 7分

小説はほとんど読みません。しかし最近読む機会があります。読んでみると愉しい。しかしやっぱり長編はだらけてしまって読めません。『3月の5日間』という小説(もとは戯曲)の感想を「堕落」の観点から書いてみました。         

そのうちビブリオバトルを足利でもやりたいな、と思います。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「堕落」について  『3月の5日間』(『私たちの許された特別な時間の終わり』所蔵 岡田利規 新潮文庫)を読んで

 もう20年以上も昔。イラク戦争の前史である湾岸戦争の空爆の映像はTVゲームのようだと言われた。当時TVのニュースの映像を見てそうだな、と私も思った。私はTV画面の前で、何をしていたか覚えていない。部屋の中のTVの前で、たぶん夕飯を食べながら見ていたかもしれないし、得た情報を翌日誰かにちょっと深刻な顔をして話したとも思う。「TVゲームみたいな戦闘って怖いね」とか、社会批評風に聞きかじったことを語ったとも思う。『3月の五日間』はこの湾岸戦争を前史として勃発したイラク戦争が始まる前後5日間が舞台になっています。以下「密室」「ゲーム」と「情報」という観点から、『3月の五日間』を作品世界の時系列を追って読んでみたいと思います。

➀映画館。映画館は「密室」だ。そして映画はつまらない。4人の女の子の思春期が語られる映画。その内容に興味がわかず、ミノベは「情報」をスクリーン上から得る事を止めてしまう。また一緒に観覧したミッフィーとのやり取りも、気の乗らない刺激のないものに終わっている。ミノベは彼女に何も求めてはいない。映画の内容、ミッフィーという人物の「情報」は弛緩している。弛緩した「情報」の中で「ゲーム」の駆け引きは成立していない。 ②スーパーデラックスにて。スーパーデラックスは天井の低いライブハウスで「密室」である。そこでの反戦パフォーマンスは、パフォーマーが外人であったからかろうじて体裁を得ているようなものであった。しかも言論の自由を狙うようでありながら、反対意見は事実上封じられているような場でもあった。事実、パフォーマーがブッシュは悪か?と問とうと、皆Yes!と叫ぶ。唯一No!を言う人もいたが、それはその場の精彩を利かすためのスパイスとしての発言であったと自供する。曰く、一人くらい反対がいないと気持ち悪いから・・・。ここでの反戦の示威は、スーパーデラックスの「密室」に守られている。それはTVモニターの中で戦争ゲームをしているような、「密室」で行でわれる「反戦ゲーム」に過ぎない。「一人くらい反対がいないと気持ち悪いから」の言はこれをよく示唆している。ただし外人がパフォーマーであったために、見栄えはそれなりに良く日本ではないような錯覚をミノベは得る。 ③スーパーデラックスでマイクの前に立った女の話。女は渋谷の街を散歩して、反戦デモが行儀良くゆるゆると歩いている事に驚いたことを話す。おそらくSNSの「情報」に応じて集まった者達がゆるゆると歩いていたのだろう。警察に守られて?やりすぎないように。しかしデモとして成立するように・・・。警察と激しく身体を衝突させるような抗議がなされることはない。すべて「ルール」内での駆け引きでありデモは一つの「ゲーム」だろう。そして日本もまた「密室」なのかもしれない。 ④ミノベはスーパーデラックスで知り合った女性とラブホテルの「密室」へ。そこでは通信機器の電源をOFFにしてTVも見ない。あらゆる「情報を排して」、二人の、男と女の身体全体を交わらせる対の関係にのみ没頭する。行為の合間になされる会話も、対の関係を壊すような「男女の駆け引きのゲーム性」は徹底して排除される。 ⑤ラブホテルで過ごす5日のうちの3日目は、空爆開始の日であった。アメリカがイラクを空爆しているその時、二人は空腹に気が付きホテルを出て食事をとる。空爆の開始の「情報」が流れる、この「反戦ゲーム」のクライマックスの中で、二人は身体の関係を持続させるために空腹を満たす。性と生を維持するために「情報」の街の中に出ていく。食事をとりホテルに戻るときはそこが家のように思える。身体という家に戻る、という感じなのだろうか? ⑥5日目の朝。ホテルをチェックアウトした女は、黒い犬が残飯を漁っているのだと思っていたのが、ホームレスが糞をしている姿だと知って吐き気を覚える。人と動物を見間違えたことに吐き気をもよおしたのだった。そしてホテルはもう帰るべき場所とは思えなくなる。

 ➀➁➂で共通する事は、すべて「密室」の「情報」の「ゲーム」であるという事である。 しかし④⑤は様相が異なっている。ミノベは「密室(ホテル・または街)」で「情報を遮断し」「男女の駆け引きのゲーム」も排除する。性と命の原点の身体の位置にあろうとする。そこが家でもあるかのように。 こうしてみてみると『3月の五日間』は、密室から出ることはできないとしたうえで(たぶん日本を実際飛び出してもそれは外に出るという事にはならないという直観があるのではないか?)「情報」「ゲーム」としての生活・文化に対するアンチテーゼとして、身体や性をゼロ地点として提示しているのではないかと思ってしまう。しかしこれはありきたりなアンチではないだろうか?  ⑥について考えてみる。「人と動物を見間違えたことに吐き気をもよおしたのだ」。これはつまり「情報」「ゲーム」へのアンチであった筈の、身体や性へのアンチであり嘔吐だったのではないだろうか?だから帰るべき家であったホテル=身体・性のゼロ地点、は家ではなくなるのである。女はおそらく最後の抵抗として吐瀉先に文化村を選んだ。しかしその願い(純粋な身体・性の文化化)は果たされず、道端に吐物をただの汚物としてまき散らす。こうして最後の最後でアンチテーゼがさらに否定される。しかし弁証法的にジンテーゼとして総合があるわけではない。そういう答えが示されているわけではない。従って読者はアンチとアンチの狭間で放り出されるような感覚になる。

 ところで『3月の五日間』の語りの主人公は、転変する。「僕から、彼、男、私から、彼女、女」(大江健三郎書評より)へと転変する。この転変を成長ととらえるならば、この『3月の五日間』は“アンチとアンチの狭間に在る人の在り方を、もしくは男と女の狭間に在る人の在り方を問う事”を成長として示しているのではないか、と思います。飛躍していってしまえば言葉と身体、意識と無意識、精神と物質の狭間に揺れる事、ともいえるかもしれませんが、こう言ってしまうとあまりにありきたりな感じがしますし、何も言っていないようにも思えてしまいます。

 ところで。政治にコミットメントする事、情報通になる事、社会参加し必要あれば人のために海外に赴くことも厭わないこと。正義のために戦う事。これらは堕落ではないようですが、私には堕落に思えます。そしてそれらをすべて裏返したような、態度を自覚的にとることも・・・つまり5日間の性行為のようなそれも私には堕落に思えます。では堕落ではないとはどういうことか?  私はISに斬首された後藤氏と湯川氏を思い浮かべます。後藤氏は尊敬すべき素晴らしい人物だったと思います。しかし湯川氏は、人生において挫折の連続を生きたような人物で、斬首の間際も命乞いをするような人物でありました(あまりに見苦しいので公開されなかったとも言われてます)。かれは時代の主流にのれず、漏れ零れ落ちてしまう人ではなかったか。しかし漏れこぼれた同士で結束し、時代のアンチや傍流として自身を位置付ける事も出来ないタイプではなかったか。彼は堕落の自覚なく堕落し、堕落の自覚がないゆえに主流や傍流やアンチといった布置や図式の外側で、あるいは狭間で一人、どこにも身の置き場も見いだせずに足掻いていたように思います(実際に男根を切り落とし男性と女性の「狭間」を求めました)。本当にそんな人物がそばに居たら迷惑なだけなのですが、彼の在り方は希望なき故に本当の意味で堕落であるし、それ故に人の在り方を示しているように思います。そして人の在り方を示しているという点では後藤氏よりもしかしたら堕落してはいない。彼は人の為社会の為に何かを出来る人物であり、私はとても尊敬します。湯川氏に対しては尊敬できないのですが、その在り方をだからと言って否定してしまったら、いけないように思います。 それが『3月の五日間』における成長としての堕落、でもあるような意味で。そう思うのです。                                   2017年8月30日 岡村正敏

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