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特集記事

実践文学としてのケア

  • 岡村正敏
  • 2017年7月18日
  • 読了時間: 2分

実践文学としてのケア  ケアの現場は深刻な人手不足。やがて2025年には生産年齢層の二人で高齢者一人を支える社会が到来します。どうするのか。地域包括ケアシステムの構想、介護ロボットの導入、外国人介護者の呼び込み、介護士の質・技術の向上等が対策として進められています。こうしてケアの論点が効率化の工夫とマンパワーの獲得に集約されていくのだとしたら、しかしこれはこれで私は違和感を覚えます。何か重要な部分が置き去りにされている気がするからです。観点を変えてみます。もしも人手が足りていたらどうなのだろうか、と。トラブルへの対応や

処理から解放されてようやく本分であるWelfar(福祉)に専念するようになるのだろうか?認知症や介護拒否が強い方にもじっくりと向き合い、落ち着きを取り戻す環境を組み上げた上で、尚その人の生活と人生を創る事に専心するようになるのだろうか?そして考えるのだろうか?ケアとは何かと。Welfarとはどういう事かと。それは、どういう、事なのか、と。  教科書にはその人らしさだとか自己決定の尊重だとかは書いてあります。しかしそういう在り方とは実際どんな在り方なのか。人が人間として在り生きるとはどんな生活なのか、その文化とは如何なるものなのか。人が個人として在り社会の中で人生を紡ぎながら老いて行く、この事にどんな意味や価値があるだろうか・・・。正解は与えられておらず手探りで探らなければならない事ばかりです。しかしここにケアの思想的根幹を見ないならば今後ケアの歴史にどんな進展があるのかと思います。  そういえば朝日新聞の「折々の言葉」にこんな「言葉」が掲載されていました(2015年12月20日)。「死ぬとわかっていて何故人は生きていけるのか。その根源的な理由を考えることが文学部というところです」。評論家の大宅映子の私大での講演の言葉なのだそうです。哲学者の鷲田清一はこれを「意表を突く表現だが、ほぼ完璧な人文学の定義だと思う」と評していました。文系学問の実用性の希薄さが指摘されている昨今。超高齢社会において、文学のアンガージュ・・・とは言うまい。「実践文学」と仮に言うならば、その最もな実践「場」とはケアの現場そのものなのではないだろうか・・・そう私は思います。岡村正敏

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