「高齢者の介護施設で行う絵画教室の10年間の活動報告と今後の展望」の第二部対話ワークショップの報告
第2部:対話ワークショップの報告
2017年6月10日。足利市市民活動センターにて開催した「高齢者施設で行う絵画教室の10年間の活動報告と今後の展望」の第二部、対話ワークショップの報告です。対話の世話人(ファシリテーション)は「対話学舎えんたらいふ」の齊藤充氏。参加者は8名。80分の対話となりました。テーマは設けなかったのですが、その場で話し合ううちに「アートの価値」に決まりました。以下その内容です。※録音・録画はしなかったので筆記と私の記憶に拠っています。したがって大きな流れとしてこのような内容で進行した、という事であります。
テーマ「アートの価値」
●作品の価値とは何なのか?
●作品自体には価値はないと思う。例えば、かつて作品の価値を決定していた場は日展だった。日展の実態は文科省の権威がヒエラルキーの頂上にある。その威光の下に総て組織された閉じた世界でしかない。作品の価値もその中での人間関係等、作品以外のしがらみにまみれて評価される部分も大きかった。しかも日展自体が社会の中で価値付けられてもいたので(文科省・国家の権威)、日展の評価が社会的評価でもあり、作品の価値に直結する事でもあった。そういう価値付与のからくりは、かつてあり、現在は評論家・作家・コレクターからなる「アートワールド」にその場を移している。だから作品自体に価値はない。
●しかしいい絵だとか感動する絵もあるのでは?
●ゴッホ展に行くとき、作品を見に行くだけでなく、作品を含めたゴッホの人生全体を価値あるものとして見に行く。ゴッホの作品を見るときも実は同じようなものなのではないか?作品そのものではなく、作品を取り巻くほかの要素も含めて価値付けているのではないのか?
●しかしやはり作品そのものの価値というものもあるのではないか?
●それはあるとは思う。きれいだとか、素晴らしいとか、妙に魅かれるとか。しかしそれらは作品でなくとも街や自然の風景の中にもあるだろう。それは作品の特権的な価値というわけではない。
●作品には完成というものはあるのだろうか?未完成の作品でも価値があったりするのは何故?
●作品はここで完成と言い切れることはないのではないか?作家がスタイルを変えて何かを探求していることはそういう事ではないか?
●そうすると作家にとって一つの作品そのものに価値があるというよりも、作品のアーカイヴのようなもの、回顧展や画集のようなものに結局価値があるという事になるのではないか?
●言い換えると作品を介した作家その人の人生そのものが価値なのではないか?
●ならば作品=人生としてみるとどうだろう。人生に完成はあるのか?思春期や青年期、壮年期や老年期の理想的ビジョン、のような節目節目の完成像はあるけれども、これで私の人生は完全だ!おしまい!と言い切れるような完成は、どんなに幸せな人生を歩んだ人だって、どんなに悟りを開いた人だって、本当はないのではないか?
●すると作品、もしくは人生の価値とは結局その過程という事なのだろうか?
●過程が大切!とはしかしよく使われる文句でもある(あと関係性とか)。そして過程重視とは完成軽視と表裏一体でもある。そういう作品って実はあんまり魅力的な作品でなかったりもする。人生に即してみれば、関係性重視は主体性軽視でもあって、それは魅力的ではない、という事になるのだろうか。
2017年6月28日 岡村正敏