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特集記事

「JOURNAL 東京迂回路研究 3」発行記念イベント に参加:報告と考察

 2017年3月17日(金)。アーツ千代田にて開催された東京迂回路研究の、「JOURNAL 東京迂回路研究 3」発行記念イベント に参加しました。この「東京迂回路研究」の活動に足を運ぶようになって1年たちます。 そもそもは、私が高齢者介護の施設内での活動から、施設外の活動へと向かう際「ケア×街×アート」の現場と学術を包括するような実践場として関心を持ったのがきっかけでした。「現場」は大切ですが介護の現場に張り付いていると現場しか見えなくなってしまいます。しかし学術・研修・書籍に学んでも、「社会」を鳥瞰することはあっても、何だか上空を浮遊しているようでしかない。「東京迂回路研究」は「現場」と「社会」、「実践」と「理論」の双極がいい塩梅に混じり込んでいる感じがします。混じり込んで「もやもや」している(「もやもや」は東京迂回路研究のキーワードでもありました)。参加するたびに「もやもや」してしまう。これは面白いんじゃないんだろうか?(普通会社の研修や勉強会は答えを得るため、学ぶために参加する。「学べ」と言われると学びたくなくなる)。こうして1年東京迂回路研究に足を運んでみて、今の社会の大まかな動向と問題点と、それに対する「アプローチの方向性」のいくつかのパターンが何となく整理できた気がします(しかし整理はできても選択を保留するという点で「もやもや」は依然残る)。

 今回プログラムでは、新澤克憲氏(ハーモニー)× 鈴木励滋氏(地域作業所カプカプ)× 小川貞子氏(Café ここいま)のトークセッションが行われましたが、いくつかのキーワード(当事者・価値観の拡大)に、やはり「もやもや」が残りました。この「もやもや」の精査はまたしてみるつもりです。最近思うことは「もやもや」しつつも行動のベクトルを、暫定的であれもう少し明確にしていかなけtればならないな、ということです。それはあの立場もこの立場も理解を示したうえで(だからもやもやする)、いつか来るタイミングに備えて「覚悟を見据える」、という事でしょうか。この辺のことは東京迂回路研究の「迂回路」の定義の変化にも微妙に、関係するのかな、とも思います。

27年度までの定義ではこうあります。

 「私たちは生きるなかで言いようのないもどかしさややりきれなさ、つらさやしんどさを感

 じたとしても、抜け道を見つけたり、寄り道をしたりすることで、既存の枠組みや境界をず

 らし、歩きつづけることができるのではないだろうか」。

28年度の定義ではこうなります。

 「迂回路とは、行き止まりに突き当たった人々がわきに逸れて新たに開拓する道なのではな

 く、日常の中における自分と他者との関係が変わる事で、他者との間に立ち現れてくるよう

 なみちなのではないか、ということです」。

私の場合27年度までの定義で捨てがたいと思う部分があるとしたら、共に道を開くことはあっても、最後は自分の足で一人で歩むしかないのだ、という響きにあります。28年度のニュアンスは、自他の関係が変わる事で迂回路が己ずから立ち現れてくる、というものになっています。自ら切り開いた道を歩むのではなく、他者との間に道が立ち現れるのを「待つ」。この定義の変化はさらりと読み流せるほど軽いものではないな、と私は思います。

きちんとした論考はいずれ行いたいと思います。

                          2017年3月18日 岡村正敏

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