居酒屋談義の試み:2016年7月開催
居酒屋談義(仮)の試みについて:報告等
1居酒屋談義(仮)の動機
哲学カフェや言論カフェ。数年前からよく耳にしています。最近はお寺のお坊さんが法話と悩み相談を兼ねたサロンのようなものを催したりと、様々な近似の試みも見聞きします。それらはとても魅力的な試みだと思います。とても愉しい事と思いつつも、しかし、生々しい「もの」や「事」に直接触れる現場の従事者の観点(※1)でいえば、私には少し違和感も覚えてしまうのです。何というのか、そういった場はやはり用意された場、という雰囲気がするのです。私の理想は、仕事帰りに声をかけ、一杯ビールでも飲みながら愚痴と冗談が半分、残り半分で喧嘩にならない程度の議論を言い合い、それを日常の言葉でよいから纏め形に残す、という試みです。そういった試みが蓄積され、何かアクションが起こり、現場従事者が自分たちの手で現場に働きかけ、現場を取り巻く制度や社会が変容していく(但し現場従事者が自分たちの活動の対象にするのは現場とその周辺にすべきと思います。制度や社会にまで手を出そうとすると、現場の人間ではなくなってしまう気がします。この辺りの事情には今は明確な答えが出せません)。本当の意味で現場と現場で働く従事者が変わるのだとしたら、そう言う事なのだと私は思うのです(※2)。
確かに外部からの介入という形で、学問や言論で社会を動かしていく方たちが現場に入り込みボトムアップする方法でも現場は変わるのかも知れません。しかし現場は変わっても、従事者個々人の本性というか、人(人⋀人間⋀個人)としての在り方自体が変わるのかどうか、とても疑問なのです。
そのような思いがあり、7月から気軽な形で始めました居酒屋談義の試みは、言論の領域で活動している方たちが哲学カフェという方法によって、社会の中へと活動のベクトルを向けるのとちょうど鏡像のような関係にあると思います。言論の領域で活動している方が生々しい現場(人の体に直接触れ、衣食住全般と排泄に関わる営みの場)の方角へ半歩踏み出すならば、現場の活動の従事者も言論の領域に向かって半歩踏み出す。すると両側から半歩半歩で一歩となる。一歩となる事で人が人として(⋀人間⋀個人として)バランスよく立つことが出来る領域が拓けるのではないか・・・。そんな事を考えています。どうも私の力点は、社会を変えるというより人が人になる(人⋀人間⋀個人になる)事に置かれているようです。今後もウォーキングと談義を兼ねた座談会ならぬ「歩談会」等、談義しやすい試みで継続していけたら愉しいだろうな、と考えています。 2016年7月21日 岡村正敏
※1 ここでは介護施設で働いている介護士の観点
※2 もう20年も前になりますが、私が美術界に関わっていたころ(正しくは関わろうとしていた頃)も画廊巡り
を行いながら作家が美術評論家に依存せずに表現と社会の関係を作家の言葉で考え深め、発表の場を含んだ自
分たちの活動の場を自分たちの手で作る試みを数人で試みたことがあります。結果は散々なものに終わりまし
た。その失敗から20年を経て、介護の現場で今も同じ事をやっているなと言う感はあります。
2論点まとめ『居酒屋談義談義録』
2016年7月19日開催
場所:群馬県桐生市広沢町「いっちょう」の座敷「根本」にて
4名で食事と愚痴と談義
以下居酒屋談義の論点を整理しました。
論点1「ケア=文化」
●「介護を文化まで拡大する必要があるのか?」
○「ある。一人の方の十分なケアを行うためにはそこに専念するだけでなく、その状況を取り巻く制度や環境にかかわるマクロな視点は絶対に必要。しかし直接な現場従事者の多くはこういうかもしれません。「それは私たちの役割ではない」と。しかしそう言い切ってしまう弊害は大いにあるのではないか。周囲を見渡せば、介護保険制度や施設の運営、現場の在り方に不満を漏らすものは多くいます。不満は言えます。しかしそこから先、自分の頭でアイデアをひねり出し、自分の足で動き、自分の手で工夫を凝らし何かアクションを起こそうという者がどれだけいるのか?「運営に介入せよ!制度を変えよう!社会改革を目指せ!」と言っているのではありません。ただそういう視野を持ち、自分で考える習慣がないと、常に意識は上意下達にとどまります。それは人として、人間の資質として、個人の在り方としてとても疑問です。もちろん制度そのものを頭から否定し一から自分たちの手で何かを作り出すことはできません。しかし制度に従いながらも、その隙間で様々なネットワークを築き、アイデアを試すことは可能です。一人の人をケアすることとは、逆説的ではあるが社会をケアすることと何ら分離しているものではないと私は考えます。むしろそう分離してしまう介護従事者の意識の持ち方が、ケアを文化として捉える視点を逸らし見失わせています。その事が、身体介護を十分に出来れば上出来。事故を防げれば上出来。レクではその場を盛り上げられれば上出来(つまりリ・クリエイションではない)。と言う感じで、ケアを断片的なケアに偏らせ、停滞させているのです(即ち事実上医療・リハビリ系の熟練した下働きに止まらせている)。つまりケア全体の質の低下をもたらしている、と私は10年現場に従事してきて身に染みて思うのです。そういう意味でもマクロな視点は絶対に必要だと思います」
●「言っていることは解るけど、なんか違う気もする」
○「そうかな」
論点2「文化としてのケアに何ができるのか」
●「文化文化と言うが何ができるのか」
○「些細なことしかできないと思う。さっき、一人の人をケアすることとは、逆説的ではあるが社会をケアすることと何ら分離しているものではないと言いましたが、こう言い換えることもできます。ある人をケアすることと社会をケアする事を複雑に交差させながら、試行錯誤しながら活動を模索する事。模索の軌跡を様々な人々と織りなし、形に残し蓄積させる事。そういうプロセスが「文化=カルチュア=耕す」事なのだ、と(文化文化と私はそれを肯定していますが実はその先の議論もあります。つまり「文化とは何か」の議論)。だからいきなり結果が出る訳ではないし、また偉大な結果=偉大な文化が形成される訳でもない。些細な摸索の重なりあいでしかない。しかし普段見過ごされている些細な事に着眼し、それを中心に新しい物事の捉え方を試行錯誤していく事は、実は思想(※1)構築の方法ではないのでしょうか(与えられた思想に適うように実践するのではなく、思想を構築する摸索全体を「実践」とすると言う事です。例えば美術運動として名もなき手仕事としての「民芸」に着眼し思索を深め運動にまで高めた柳宗悦の「民芸運動」)。
ケアは身体介護や排泄・食事介助だけではない。また所謂施設でよくあるレクリエーションだけが余暇活動なのではない。アイデア次第でケアの活動は様々な広がりと可能性を持っているはずだろう」
●「どんな可能性?」
○「記録・物語・継承の可能性。私はケアの目的をこう考えています。生活を一緒に創る事であり人生を共に歩む事であると。またそれだけでなくその道程を記録しその人の物語にする事(その人の物語を完結させ、そして引き継ぐ事)でもあると思う。これまで疎かになりがちだったことは特にこの『記録』の部分。確かに記録は手間だけれども、その手間が文化になる」
●「・・・」
○「その為にはその人の身体介護だけでなく、文化的な視点で施設の内外と文化的な関わりを繋ぎ、繋ぐだけでなく様々な方法で記録する事もケアの重要な要素であるだろう」
●「それはわかるけど、具体的な事がよくわからない」
○写真や映像だけが記録ではないと思う。そして必ずしもドキュメントにしなければならないとも思いません。後から出来事を一緒に振り返り、一緒に解釈を加えます。だからこれは歴史ではなく『物語』でなければならない。その人の声・言葉・身振りを映像や音声や文章も交えた記録として総合的に編集して『物語』にする事。それを子や孫の記憶の中に想い出として引き継がせる事。そんな事を考えてはいます。あくまで私の考えです」
論点3「施設イベントについて」
○「施設では地域交流の目玉イベントとして毎年納涼祭をおこなっているけどワンパターンではないか?」
●「でも楽しみにしている家族もいるよ」
○「でも負担になってる利用者もいる。ガヤガヤした雰囲気で不穏になる方もいる。職員もボランティア出勤を強いられるし。準備にかける時間と労力、費用を考えるとどうなのか?他にもアイデアは出るはず。
例えば朝市を開くとかはどうか?日曜日はリハビリが休みなので職員の車も少なく駐車場がガラガラに空いている。そこで地域の家庭菜園をやっている人達に協力してもらい朝市を開くのも面白いのではないか?野菜は高くなっても意外と自分で作ると食べきれない程採れてしまう。近所付き合いではそれをおすそ分けなどで交換し合っている。これは立派なコミュニケーションであるし、互助でもある。そこにもう少し共助を組み込んで、例えば地域通貨的なルールを取り入れて〝施設でボランティアしたらポイントがついて、ポイントで朝市の野菜と交換できる″等は面白いかもしれない。互助を単なる心情任せのボランティアにしてしまうのではなく、地域通貨的な工夫を共助として整える事によって、それによって生活の基盤を少しでも支えられれば、例えば就労が困難である等で円の交換体系からどうしても外れてしまう人達を微力ではあっても支える一助になるのではないか?具体的に言えばアルバイトと年金で食いつなぐしかないけど、休日に高齢者の傾聴ボランティアに参加してポイントを貯めれば2~3日分の野菜が交換できる。もっとポイントを貯めれば、庭の手入れをしてもらえる、等。そうやって施設の内外を結ぶ価値の交換体系を「円」以外で独自に作っていくとどうなるのか・・・?ちょっと話が大きすぎるけど・・・」
●「・・・」
○「ケアには地域交流が必要だと思う。地域包括ケアシステムが言われているが『医療・制度的な連携』だけでなく、『ケア・文化的な連携』を地域とインフォーマルにつないでいく事が必要。提供され管理された文化ではなく〝生成する生きた文化″の部分が必要。そしてそこを担えるのが介護職、と言うよりもケア職だと考えている。もっとも、そんなことを言っているだけでは駄目で、具体的に動くためのアイデアと方法論が必要になってくるのだけれども、今のところ地域通貨とか、生涯学習(アートを中心にした)という方法が私には魅力に思えます」
●「・・・」
論点4「ケアとはどういうことか」
○「介護職は介護職についていながらケアとは何か?考えた事が無いのではないか?教科書的には答えるだろうけれども」
●「・・・」
○「私はケアとは誰かをケアしながら私もケアされている、と考えているし、誰かの自己実現をケアしながら私も自己実現していきます(※2)。それが生涯学習の理念につながっています。生涯学習とはシニアの習い事と言うイメージがあるけど、きちんと定義すると「死への準備教育(※3)」であると言う人もいる位、人の在り方に関わるような哲学的なものであります。医療・リハビリも重要ですが、ケアと最も親和性があるとしたら、そういった文化の領域であると私は考えています」
以上、先日の対話を振り返って纏めてみました。また何かの機会にお話ししましょう。
※1思想:「思想の持つ重要な点は<知識と価値意識が結合している事>にある。このために思想は人間の行動の指針となり、
行動を支配することが出来る」『新版 哲学・論理用語辞典』思想の科学研究所編より
※2ミルトンメイヤロフのケア論を論拠にしています
※3アルフォンヌ・デーケンによる
3談義録後記
上記、書記は設けなかったので私の記憶をもとに記しました。よって多分に主観的になっている部分在りますし、実際そこまでは話してなくとも追記した部分も多々あります。しかし話の流れと場の雰囲気はこんな感じであったと思います。つまり、私が私の考えを述べると言う流れになってしまいました。これは反省であると同時に、では別の進行は有り得たのか?疑問でもあります。ある程度話を切り出していかなければ職場の不満を言い合うだけの場になってしまっていました。話題を切り出しても反応が薄ければ私の考えを叩き台に出すしかなく、しかし出したからと言ってそれが必ずしも討議にまでつながる事はありませんでした。そもそも関心の方向が異なる者が集まったとき、関心の方向を共にするよう「啓蒙する」か「衝突する」か、無難な会話でお茶を濁し「無関心でいるか」の三択以外に、互いを繋ぐ関係の有り方に一体どのような態度が有り得るのか・・・今の私には明確に答えられません(「遊ぶ」はその選択肢に入るのか否か。この辺が今後のポイント?)。
「○○をテーマにした会合」と銘打てば、少なくとも関心の方向を共にするものが集まります。その関心の枠内で意見の相違を討議が出来るし、参考にし合えると思います。しかし方向がまるきり異なってしまうとどうか?「対話」の場が成り立たない。しかし異なる関心の方向を持つ者同士が、どうしたら接点が持てるのか、そこが思想構築を社会の中で実践していくにあたって(「思想を」ではなく「思想構築」を実践すると言う事)、要になってくるものと思います。
2016年7月19日 岡村正敏