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特集記事

東京メタ哲学カフェに参加しました:報告と考察

東京で開催された「東京メタ哲学カフェ」に参加しました。

「なぜ私たちは哲学カフェで哲学するのか?」

が大きなテーマとなりました。

様々意見があり私自身も途中話の筋が掴めなくなることがありました。十分に言い切れなかった部分や、聞ききれなかった部分もありました。つくずく「対話」はliveだと思います。自分の本当に考えている事とはすこしズレたことを口走ってしまったりする事もありました。

今回のテーマについてもう一度自分が考えたことを纏めてみました。

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対話について

 哲学カフェには様々な人が集まってくるようである。大体が言論に関心がある人たちである。そして多様な言論でもって対話という「場」が形成される。という事は哲学カフェとはそのような「場」の形成が目的であって合意形成が目的ではないのかもしれない。そしてそのような「場」を設ける事そのものが、言論における「実践」とみなされていると思われる。では対話とはどういう事なのか?私はこんな風に考えています。

「考えの違う人達がそれぞれの考えを言い合い、その言い分を理解する。理解したうえで、考えが違う部分を受け入れる。さらに時にはそれによって、自分の考えが変容する事も享受する。そして最後に(これが一番重要であると思うのであるが)どうしても理解できない、他人の不可侵な部分も確かにあるのだという事を、相互に受け入れる事である」

どうしても理解できない、他人の不可侵な部分も確かにあるのだという事を、相互に受け入れる事。

私はこのために哲学カフェという「場」はあるのだと思うし、対話とは最終的にディスコミュニケーションに行きつき、それが実は他人という私とは別の「何か」を尊重するという事なのだとも思います。

 ところで世の中には言論に関心を持たない人もいる筈です。そういった人はそもそも哲学カフェのような対話の「場」には現れる事はない。哲学カフェという対話の場は、そのような人達にとってどうあるべきなのだろうか?対話は重要だからと、その場に引っ張り出してくるのだとしたらそれは、啓蒙という上から目線の強制を強いるだけであろう。人の多様性の範疇にはそもそも哲学とか思想とかとは全く無縁な、全く接点を掴めない異邦人を含めるべきか否かという問題が孕んでいる。しかし実社会ではそういった人達はけっつして少数とは言えないのであり、様々な場面で関わっていかなければならない存在でもある。多様性の中に、このような哲学・思想的無関心をも含めた場合、対話の「場」が果たして成立するのか?それとも対話不可能と多様性から除外すべきなのか?この点が最も困難なのではないかと思います。

 そしてまた「私とは何か?世界は何故あるのか?在るとはどういう事か?」といったような存在論≒哲学的問いや「どうしたら幸せになれるのか?貧困をなくすには?」等と言った方法論≒思想的な問いは、言論でのみなされなければならないわけではない。実践知(プラクシス)や言葉や論理を駆使しない制作知(ポイエーシス)もまた身体的理解に向けて、同様の問いを問うているのではないのか、と思われるからである。そして身体的理解の仕方にも多様性がある筈なのである。そう考えてみると、言論の住人ではなくとも身体知という形での「知」はありうるし、言論と身体は「知」という共通のベクトルであるゆえに「言論/身体」間の対話も可能だろうと思われる。言論の住人がワークショップ等で体験的に身体知の領域に踏み込むという理解の仕方は在り得るだろうからである(逆もまた然り)。言葉や論理を駆使しない職人の実践知とは身体的理解において同様の問いを問うているのではないのか、と思われるからである。そして身体的理解の仕方にも多様性がある筈なのである。そう考えてみると、言論の住人ではなくとも身体知という形での「知」はありうるし、言論と身体は「知」という共通のベクトルであるゆえに「言論/身体」間の対話も可能だろうと思われる。言論の住人がワークショップ等で体験的に身体知の領域に踏み込むという理解の仕方は在り得るだろうからである。

 従って最も困難な事とは何か?繰り返すが、そもそも対話に関心のな人たちに、それでも言論であれ身体であれ対話していかなければならないとしたら、どうするべきか?という点ではないだろうか?単純な話でもある。「知」のベクトルに関心が全く向かわない人達に囲まれてしまった場合、どうしたらよいのか?どうしたって無茶苦茶な人。ただただ楽しければよい人。力関係で押し通し他人を支配する事にしか関心が向かない人。そんな人たちはいない筈がなく、どの町内にも職場にも必ずいる以上、関わっていかなければならない。一人や二人ならまだよいがもしそのような人たちが大多数を占めてしまった場合はどうなるのだろうか?その時言論であれ身体であれ「知」の実践場の試みはどれだけ有効なのだろうか?ある意味、暴力の前で哲学は可能か?思想は可能か?対話は可能なのか?とシンプルに言い換えても良いだろう。

これが今最も私の関心のある事の一つでもあります。

                           2017年1月7日 岡村正敏

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