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特集記事

まえばしアートスクール計画:実践b「まちなかだれでも場づくりコース集中講座に参加:報告と考察

12月9日・10日。下記講座参加しました。↓報告と考察です。

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まえばしアートスクール計画:実践b「まちなかだれでも場づくりコース」@machinakadaredemo

·新しいアート・まちづくりのありかたについて考える、2日間の集中講座。 ワークショップや、トーク、ディスカッションなどを、時間をかけて行います。 ゲスト:熊倉敬聡(芸術学、元京都造形大学教授)、長津結一郎(九州大学大学院芸術工学研究院コミュニケーションデザイン科学部門助教) 会場:前橋市・中央公民館 506学習室 <プログラム> ■12月9日(金) 14時スタート チェックイン ギフト・サークル レクチャー&ワークショップ(仮)(講師: 熊倉敬聡さん) ■12月10日(土)  10時〜12時:トーク&ディスカッション「地方都市におけるアートプロジェクトについて(仮)」(講師:長津結一郎) 12時〜13時:昼休み 13時〜15時:<番外編>オープントークイベント 15時〜17時:振り返り、解散

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9日。

1日目の講義では熊倉敬聡氏による「ギフト・サークル」のワークショップと「贈与経済」のレクチャーが行われました。

ワークショップでは自分が必要とする事と、自分がしてあげられる事をホワイトボードに書き出し、マッチングを行いました。

物々交換となる訳ですがここには貨幣の介在がありません。自分では処理しきれない物品や可能なサービスを、それが足りない方へ合意の下で交換がなされます。それによって単なる物品やサービスのドライな交換ではなく、人と人とのコミュニケーションが生まれ気持ちも伝わる事となるのだそうです。熊倉氏曰くこのような贈与が経済として成り立つのは100人くらいのコミュニティが適切とのことでした。

しかしこの事とアートはどうつながるのか?

私の解釈になりますが、話を聞いていくうちにおぼろげに見えてきたことは、アートとは「人間が豊かになる為に人と人を繋ぐメディウムである」という事のように思いました。そして「豊かさ」とは古くから伝わる農業や畜産、それから生活の技術といった、生活の原点ともいうべき「身体に密着した活動(あるいは労働というべきかもしれません)の充溢」を言っているように思えました。具体的に言えばその地域の特産物で昔ながらに必要な分の味噌を作る。もしも味噌があまったら、それが足りない者へと「贈与経済」の中で交換されていく・・・と言うように。それは人と人の関係を破壊してしまう所謂「右肩上がりの経済」とは別のものであり、逆に関係を繋ぐも経済であり、コミュニティ形成の要因となる経済である。つまり「贈与経済」という「仕組み」は、人が人や地域の本来の「豊かさ」を再発見し獲得するための、メディウムであり経済であり、「アート(=技術)」である、という事なのかもしれません。

10日。

2日目は中津結一朗氏による講義。地方都市でのアートプロジェクトを事例にあげながら、アートが地域に介入する際の問題点や、障害者やマイノリティにアートが関わる際の難しさが話されました。この講義では結局明確な答えは出なかった様でしたが、問題が明示されたことで、現在2020年のパラリンピックへ向けての障害者支援のムーブメントの課題が浮き彫りになったように思いました。

またマイノリティがアートによって擁立されることで、マイノリティの中にさらにマイノリティが生じてしまうという話もありました。この問題に関しては、私はマジョリティとマイノリティ、健常者と非健常者といった設定に問題があるように思えてしまいます。よく言われる事ですが、障害者のアートという事で「障害」がより意識されてしまうという事。そして、では「障害者/非障害者」「マジョリティ/マイノリティ」という設定を無くしてしまうとどうなるのか。おそらく私の目の前にいるのは裸の「個人」となります。差別、というか対立の設定を無効にするとは「個人」として在るという事に目を向けるという事なのかもしれません。

アートが地域に介入する際の問題点としては、アートが地域に貢献する事も在り得るが地域のニーズからずれた一過性のお祭り騒ぎを引き起こして終了、という結果に陥る可能性もあり、その場合住民は利用された、という感情をもってしまう事があるという話がありました。

このあたりのことは、私は社会に介入するアートとは、どうしたって有用性のアートであるのだから、そういう自覚を持たねばならないと思います。自己探求や自己表現としてのアートと有用性のアートを混同するから、半端なお祭り騒ぎになってしまうのではないのか?地域に有用なアートならではの貢献というものがあるはずであり、作家の側にあくまでそういうものとして関わるという自覚と学習があれば、住民との齟齬は無くせるのではないだろうか?しかしそれは違うのでは、という意見もありました。

今回2日間の講座でしたが全体の感想は、とても愉しいものでした。内容に共感・納得する部分も多くありました。しかしアートは果たして、本当に人と人を結ぶメディウムなのだろうか?私自身が絵を20年以上も描き続け、描くという身体行為を捨てられないという個人的な理由もあり「描く者」という立場からすると疑問に思う部分もありました。また、マジョリティ/マイノリティという設定から透けて見える「個人」の問題。それからアートの有用性といった問題についても、自分なりの考えを持ちつつも、当否の確証を得られぬままになりました。しかしそれは今回講義に求めるのではなく、ここから自分で導いていかなければならないものとして、受け止め様と思います。                       2016年12月10日 岡村正敏

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