ユマニチュードについて:考察
1960年代にイヴ・ジネスト等によって創出されたケアの技術体系「ユマニチュード」。その、ユマニチュードを構成する4つの柱の一つである「立つ(寝たきりにしない)」についての考察です。
立つことが出来なくなる、歩けなくなるだけでその人の生きる世界は大きく変わってしまいます。行動範囲はもちろん大幅に狭まり、ものの見え方感じ方もこれまでとは全く異なる世界に放り出されます。それは身体機能だけでなく認知能力、精神状態にも影響を及ぼす事となります。またケアする側にとっても歩ける歩けないの差は、とても大きなものであります。立てない・歩けないによって、加速度的にケアの必要と労力が増していきます。だから寝たきりは阻止しなければなりません。「立てるなら立ってもらおう。歩けるなら歩いてもらおう。自分の事は自分でしたいはずだから・・・」
これが日本の介護現場での「立つ」事に対する理解大体であります。そして、「自分のことは自分でしたいはずだから・・・」介護現場で幾度となく耳にしてきた(そして無反省に耳にしてきた)この言葉こそ、日本の介護現場で共有されている、支援者の支援理由の根拠の様に思います。
では、ユマニチュードの「立つ」はどうでしょうか?ユマニチュードでは、人にとって立つという事はどういう事かという哲学や考察がまず礎に置かれます。そこから立つ支援という目的が繋がり、立たせる技術に結びついています。ここで着目したいのは、そういったものが現場から自発的に、哲学・方法・技術の総合として「立ち上がってきた」という事です。
以下ではイヴ・ジネストとロゼット マレスコッティ共著の『Humanitude 老いと介護の画期的な書』から「立つ」哲学の部分を抜粋し、所感を交えて紹介します(哲学の当否についてはここでは問わないこととします)。
・「『ユマニチュード』という言葉は、1930年代からパリに集まったフランス領植民地の
黒人知識人たちが自らの”黒人らしさ“を取り戻そうと起こした文学運動である『ネグリチ
ュード』を起源に持ち、”人間らしさ“あるいは”人間の尊厳の回復“という意味を込めて生
まれた造語」
→ここからはユマニチュードが単に介護効率を良くするテクニックではなく、それが社会
的な自立運動の一つであるという自負心が読み取れます
・「われわれは介護者300人に対して一様に『介護者とは何か』という形で職業意識をどう
認識しているかを質問した。その回答が実に様々であり介護者がその職業意識を定義しか
ね、明確にしかねているのを前にして、築こうとしている人間主義的老年学的方法を実り
のあるものとする原理とのかかわりも併せて、ユマニチュードの哲学を摸索した」
→この部分からはユマニチュードがケア・介護職を、医療・リハビリ職から明確に区分
し、自立的職域として確立し、社会的に「立つ」為に自ら求めた思想であることが伺える
・「子供のころに自分の力だけで立ち上がったこと、それを見ていた親や大人に喜ばれたとい
う記憶は、ポジティブで誇りに満ちた感情記憶です。立つことによってあなたと私が互い
に同じ人間であるという意識が芽生えます。また空間認知が育まれ、内なる世界と外側の
世界がある事を知覚します。歩くことで移動能力を獲得し『社会における自己』を認識す
る関係性を経験し、一人の人間であることを認識します。この認識こそが人間の尊厳とな
ります。人間の尊厳は立つことによってもたらされることが強く、これは死の直前まで尊
重されなければなりません」
→「立つ」事の人文的解釈が行われ価値が付与された事によって、立たせることの倫理的
動機が加えられています。それによって介護者は、健康や機能維持を目的として立位や歩
行の時間を設けるといった医療・リハビリ的な計画意識から脱却し、人として在ってもら
う為に立位や歩行の介助を行うのだ、と言った意識の転換が起こるはずです。人文学的実
践領域として、ケアを見直すことに繋がっていくはずです
私がユマニチュードに魅力を感じるのは、現場従事者がケアの現場の中から、哲学、方法、技術といったレベルの異なる活動を総合的に練り上げていったという点であります。そして「ケア」という自立した職域を確立しようとしたことにあると思います。「ユマニチュード」の方法・技術は参考になるものも多いのですが、もっとも学びたいのはこの「姿勢」の部分だと思います。
2016年2月13日 岡村正敏
参考文献 『Humanitude 老いと介護の画期的な書』 (株)トライアリスト東京
『ユマニチュード入門』 医学書院 『ユマニチュードの衝撃』 角川ONEテーマ21