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特集記事

アトリエ・アルゴに参加:報告と考察


2年ほど前から通っているアトリエ・アルゴに久々に参加。障害を持った方達と2時間程絵を描いてきました。とはいっても特に会話をする事もなく、また絵を描く補助をするわけでもない。単に自分の絵を描きに行きました。何故か絵は、自分の部屋で独りで黙々と描くよりも少し人目があった方が集中できます。それに広い。そんな理由もあって、アトリエに足を運んでその場を共有しているわけですが、この「描く場」とは、「音の場(音楽)」や「リズムの場(ダンス・舞踏)」と比べると、随分と異質なものである気がします。「音の場(音楽)」や「リズムの場(ダンス・舞踏)」は、例えばそこに参加する事で参加者各々が繋がる事が出来る。音やリズムがその場にメディウムとして広がり参加者を包み込み、各々に浸透することで各人の隔たりが無くなるように感じられます。しかし「描く場」はそのように各人が繋がる感じが全くしない。各人は各々の画面に向き合って黙々と手を動かしている。関心は画面に向かい、手が画面と私を媒介しているだけである。しかしだからと言って全く各々が断絶しているわけでもなく、各人は画面に集中しながらも背中で他の各々が制作している気配を感じてもいる。この微妙な意識を核にした場の共有は、音やリズムによって各人が、融和するように繋がっていくような場の共有とは、方向性が真逆なような気がします。

実際黙々と画面に向かい手を動かしていると、他の方の個別性が際立って意識されてくるのです。融和する一体感とは違う、個々の異質性が伝わってくるのです。そういう異質性を意識できるという部分で各人が繋がっている。つまり、隔たっている筈なのに互いを意識し合えている、というこの矛盾を共有する場こそが「描く場」なのではないでしょうか?実際アルゴに参加するとは、私にとって上記の理由の他に、健常者/障害者という区別の無く共に絵を描く、インクルージヴな試みでもあるのですが、健常者/障害者の壁が取り払われて感じられることは、その人の個別性であります。それは誰もが個別な存在であり、その多様性にもかかわらず繋がることが出来るのだ、という意味ではとても素晴らしいことですが、その様に皆対等という意識のもとでは戸惑う事も多々感じられもします。例えば、今日の事ですが流し台で手を洗っていると、後ろから突然ひょいと手を伸ばし割り込んでくる。そして何も言わずすっと行ってしまう。これは一言注意した方がいいのだろうか、それとも仕方のない事だからと黙っているべきかと、その人の障害を鑑みて判断するのですが、それがとても難しい。むしろ障害者だからと括ってしまうほうが気楽で、かなりの部分まで許せてしまいます(これは高齢者・認知症介護の場合も同じです)。多様な個人が多様なままに共に在る、事の確認の方法論(=技術=アート)として「描く場」というのは適っていると思います。しかしその確認後、先ほどの手洗いのケースに見られるような実際の生活の問題に関わってくるとどうなのか?描くという方法論(=技術=アート)では賄いきれない部分がたちどころに噴出してきます。その解決にはアートとは別の技術が必要となってくる筈です。

思うのはインクルージヴな関わりにおけるアートの役割は、せいぜい確認の方法論(=技術=アート)にしかなれないのではないかということです。アートに誇大な期待を寄せるべきではない、と。そんなことを考えてみると、アートと社会の微妙な関係も少しすっきりとしてくる気がします。つまりアートは社会や政治にとって道具でしかない。そう割り切るならば割り切るものを非難すべきでもないだろう。だがしかし、そこまで考えを詰めたうえで、そこから私にとってアートとは何か?との問いが再考されて行かなければならないのではないだろうか?

以下纏めです。

●「描く場」と「音・リズムの場」の、場の共有に関する方向性の相違

●障害/健常の区分(マイノリティ/マジョリティでも同じ)を撤廃する事で見えてくるものは個人である

●個人レヴェルの多様性が成立する場=社会を確認する、確認の方法論(=技術=アート)としての有用性がアートにはある。そこに自覚的であるならば、有用性のアートを非難する理由もない

●アートの有用性を確認したうえで、さらに有用性としてのアートを超えた、アートの意義が再考されなければならない

アートの有用性については昨今の動向に関して色々と考えてしまいます。特に2020年パラリンピックに向けた、障害者とアートの動向は、これまでの考察に則れば全く悪い事では ありません。 しかしアートは単に障害者/健常者が個人として対等である、という確認の方法論でしかないのであれば、このこのムーブメントをこの先、地域のコミュニティ形成や高齢や貧困の問題とどう結び付けていくかという事が、このムーブメントの裏で地道に進行させていかなければならない事だと思っています。そしてそれは明らかに、市民活動の場である。そういう自覚がアーティストの社会参画には必要だと考えています。

                                  2016年11月7日 岡村正敏

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