東京迂回路研究オープンラボ・ワークショップ「詩・写真・声ーここから言葉をつむぐということ」に参加して:報告・考察
- 岡村正敏
- 2016年11月1日
- 読了時間: 5分

10月29日。東京迂回路研究オープンラボに参加しました(詳しくは、東京迂回路研究→www.diver-sion.org/tokyo/)。
この日参加したプログラムは次の2つ。
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【PROGRAM4】ワークショップ「こころのたねとして:齋藤陽道さんの写真から@東京迂回路研究」 10月29日(土)15:00〜17:00
上田假奈代さんが全国各地で実施している詩の創作ワークショップ「こころのたねとして」は、参加者同士がインタビューをしあい、詩をつくるというもの。ここでは、齋藤陽道さんの写真から、想起されることについてインタビューしあい、詩をつくってみます。
ゲスト:上田假奈代(詩人)
会場:SHIBAURA HOUSE 3階(google map)
【PROGRAM5】スライドショー&ライブ「詩・写真・声ーここから言葉をつむぐということ」 10月29日(土)17:30〜19:00
プログラム4のワークショップで生まれた詩の朗読と、齋藤陽道さんの写真のスライドショーを行います。また、声のアーティスト山崎阿弥さんを迎え、詩、写真、音声などさまざまな声の共演を試みます。
ゲスト:山崎阿弥(声のアーティスト)
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●プログラム4では詩のワークショップが行われました。参加者が2人1組となって、写真家斉藤陽道氏が撮影した写真を1枚選び、それをもとにインタビューをし合います。そのメモを元に詩作するのです。だから他人の言葉を材料に詩を作る。それを上田假奈代氏は「他力本願」と言われていました。
私がえらんだのは赤ちゃんとオウムが見つめ合っている写真。周囲は薄明るく青い、ヴィヴィッドな夜明け前の様な光に包まれています。奇しくも上田氏と同じ写真を選びました。
以下上田氏に作っていただいた詩です。写真の透明な夜明け前の様な光が、私の祖母が亡くなった日の朝の情景に似ていたので、その話をしたところ、こんな詩を作ってくださいました。
あけがたに来る人よ
あけがたに来る人よ
夜でもなく 朝でもなく
昼でもなく
どこにも属さない時間
あけがたに来る人よ
祖母が亡くなった日
一晩中起きていて眠らずにいた
障子の色がだんだんと
変わって 気が付くと
あけがたに来る人よ
白い光の中で
耳をすます 自分の心臓の音
体の中の小さな揺れ
あけがたに来る人よ
静まりかえった時間の中 何かが始まる予感を携えて
その切っ先を
それ以上さかのぼる事も出来ない
瞬間の
刹那
!
あけがたに来る人よ
たちつくす ただたちつくす
そこにたちつくす
たちつくす ただそのただなかに
たちつくす
まっすぐめをみひらいて
あけがたに来る人よ
名前を 呼ぶ
上田假奈代
2016年10月29日
次は私が作った詩です。上田氏が話してくれた、共感覚的に木やものと通じあえたという体験に、共感しつつ疑問を投げかけるような詩を作ってみました。ちなみにこの疑問は、今回オープンラボ主催の東京迂回路研究の第12回もやもやフィールドワーク・哲学カフェ『わかり合えないから何が始まる?』への「応え」(今現在の応え)でもあります。即ちそれは存在論的な「倫理」ではないのか、と。
倫理
心がつうじ合うとは本当だろうか。
心。
そんなものではない。
何か。
私の。
存在そのものが、
誰かとつうじあうとは本当だろうか。
確かに。そんな気がしたことは私にだってあるのだ。
それを求めたことだって、確かに、あるのだ。
だがしかし、つうじ合うという事を求めるとは一体どういう事なのか?
つうじ切ってしまったら?
私を構成する総ての要素が、
例えばあなたとつうじ合い、
つうじ切ってしまったとしたらどうなのか?
きっとその時、その問いだけが残される。
そしてその問いだけが、あなたと私を、再び分け隔てるのだろう。
つうじ合うとは奇跡に違いない。
その奇跡の前で、私は問そのものとなりながら、若い頃の私ならこう叫んだであろう、
エリ エリ レマ サバクタニ
しかし今の私はそうではなく、
夜明け前、白んだ空の震える大気と光の中で、
心臓の鼓動の微かな揺れを身体に刻みながら、
静かに、
このまま、
くちていきたい
岡村正敏
2016年10月29日
●プログラム5
プログラム4で作った詩をスライドショーに合わせて朗読します。またその後、それに合わせた山崎阿弥氏のパフォ-マンスを体験しました。私は自分では絵や詩や文章を中心に創作・表現活動をしています。従って音や身体表現に疎遠な事もあり、よくわからないことが多いのですが、新鮮な印象を受けたのは確かでした。その相違を明確にしてみると次のようになるのではないでしょうか。
・絵画・書かれた詩→手に限定された身体性であり、常に「描いたもの・書かれたもの」としての対象を前に置き続ける世界の対象化、
沈黙の行為
・舞踏やパフォーマンス・読まれた詩→は身体全体を駆使して、対象との距離を解消する世界との一体化、「音・声・リズム」の行為
上記の違いはアートの2つの側面でありつつも、姿勢の違いとしては決定的である、と思えます。この違いを再確認しました。しかしそこから何が導けるか、は今のところ全く不透明であります。
●プログラム4・5を通して
一見月と地球の様にうまくバランスが取れている、良好な関係の全体とは、その内に真逆の方向性を内在させている。月と地球のバランスは、求心力と遠心力が調和している事でもあり、調和とは言いつつもそれは熾烈なせめぎ合いにあるのかも知れません。「通じ合える/つうじ合えない」「一体化/対象化」といったように。そしてその適切な距離が調和という部分で微妙に揺れながらある。
今回の私の中で明確になった焦点はやはりアートや思想やスタイルの、求心力と遠心力といったそれぞれの方向性でありました。その「対立調和結合」ともいうべき「倫理」的在り方として在るという事。そしてその先、そこからどう生き抜くべきか。これは方法論の問題に繋がっていかなけ」ればなりません。ヒントは「遊び」かもしれないし「創造」かもしれないし、「迂回路をつくる」事かもしれません。
2016年11月1日 岡村正敏