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特集記事

『幻聴かるた』体験の考察:東京迂回路研究オープンラボに参加して


 東京迂回路研究のオープンラボ初日。

オープンラボ→http://www.diver-sion.org/tokyo/program/openlab/

ハーモニーで『幻聴かるた』のワークショップに参加しました。

『幻聴かるた』→http://www.geocities.jp/harmony_setagaya/new_karutanituite.html

 参加理由は「今までに体験した事が無い事をしてみたかった」から。「わけのわからない事から新しい発見があるかもしれない」と考えたからでです。

『幻聴かるた』は普通のかるたと違った要素が組み込まれており、読み札を読み上げるのではなく、読み札の内容(幻聴体験)をジェスチャーするのです。身体的要素がルールに組み込まれることで、今までにないイメージを、普段そんなことは絶対にしないだろうという身体の使い方で半強制的に表現しなければなりません。

例えばこんな読み札があります。

 「突然雨が降ってきてそしたら周りの街が消えていった」

 「新宿の女番長がそんなことは話しちゃいけないと言ってくれる」

 「ふいに空から声がして 三越の前で待っている歩いてこい 一日待ったが誰も来なかった」

これを何とか身体を駆使して伝えなければなりません。恥ずかしがっていては出来ません。そこで思い切って何かするわけですが、その時の自分の「殻」が破れるというのか出来合いのモラルを突き破るというのか、そういう瞬間が割と心地好かったりします。思えば成人し社会でうまくやっていくとは、殻をまとい続けながら自分を固めていくような事かもしれません。自身を「こうである」と決断し規定していく事かもしれません。換言すれば「こう在れるかもしれない」可能性をそぎ落としながら決断を重ね、「こうである自分」という殻をより強固にしていく事なのもしれません。それが殻が砕けて丸裸にされてしまう。そんな恥ずかしさとともにある解放感は、ひよっとしたらそれはこれまで切り捨ててきた可能性との再会の情感なのかもしれません。

「おお!こんなことも私は出来たんだ!」と嬉し恥ずかし。自分がとったポーズに驚いてしまいます。そしてそれを誰も馬鹿にする者はここにはいないのです。

 「恥かしさとともにある解放感」。この部分について少し考えてみます。露出趣味とも解釈されかねないこのもの言いとその体験を、露出狂から峻別する部分があるならば、それはおそらく、幻聴体験の言葉・文章を私のイメージに引き寄せ、私の身体表現に繋げるといった、「言葉・イメージ・身体」の循環するプロセスにあるような気がします。これが単に丸裸になるような、反社会的快楽的露出趣味とは異なったものとしての、超現実的な解放感を私に与えてくれているような気がします(ちなみに超現実の超とはとは現実を超えた非現実ではなく、超凄い!の超です。つまりこれぞ現実!新しい現実!等のニュアンスです)。

 その昔シュルレアリスム運動はシュル・レアル(超現実)に至る様々な技法を開発しました。自動記述に始まりフロッタージュ、コラージュ、デペイズマン等々。しかしそれは制作の技法であり、作家ともの(無意識)の対の関係に閉じていたように思えます。もの(無意識)との垂直関係はあっても、他人との水平関係が希薄であったように思えます。『幻想かるた』はその水平関係がある。他人との身体を介したコミュニケーションがある。もし幻聴体験を『幻聴かるた』というゲームにしなかったとしたら?

もしも幻聴をノートに書き綴るだけであったり、絵画に仕上るだけであったとしたら?それはかつてのシュルレアリスム運動の枠を出ないものとなってしまっていたのではないでしょうか。運動であるにもかかわらず、結果その痕跡である作品をアートという文脈に位置付けて残すだけになってしまったアートトとしてのシュルレアリスムの様に。しかし、もしも、ひょっとしたらシュルレアリスムの「運動」がその後も「運動」として生き残っていたとするならば、それはアートという文脈とは外れた、「今までにない体験」の生成の場や、「わけのわからない事から新しい発見」が生まれる場にあるのではないかと思います。『幻聴かるた』はそのような「場」を生み出すツールとして、シュルレアリスム「運動」の延長に位置付けてみることも出来るのではないでしょうか?

                          2016年10月28日 岡村正敏

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