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特集記事

Review 『ハルばあちゃんの手』


『ハルばあちゃんの手』               山中恒・文 木下晋・絵  福音館書店

「おや。ほくろのあるいい手じゃ。きっとこの子は器用だし

 幸せになるよ」

 「ある時ハルは葛の蔓で籠を編んでいた。いつのまにか

 知らない男の子がのぞいていた」

 「一人の若者が、盆踊りの最後の夜、ハルの手をとった」

 「俺はユウキチじゃ。子供の頃お前に花

 かごを作ってもらったことがあるぞ」

 『ハルばあちゃんの手』は、ハルさんの決してドラマティックとは言えない人生が淡々と語られ、そして描かれている。しかし絵・文の描写はハルさんの顔ではなく手にフォーカスされている。手によってハルさんの人生が物語られている。重要なのはハルさんの顔や容姿、発言や行動ではなく、手が結ぶ縁、手が築く生活、手が繋ぐ想い出なのだ。ハルばあちゃんの物語ではない。これはハルばあちゃんの「手の物語」なのである。

 絵を担当している木下晋について付言しておきたい。木下晋は異端の画家だ。老人や障害者・ホームレスの顔を鉛筆のモノクロームで克明に描く。初期は若いモデルも描いていたが次第にそういった対象を描く様になっていった。確執のあった老いた母。壮絶な人生を歩み抜いた小林ハル(絵本のハルさんとは別人。最後の瞽女と言われる)。ハンセン病回復者でありかつて行われていた隔離政策の被害者の一人である桜井哲夫が描かれた。やがて小林ハルや桜井哲夫の合掌する姿が描かれるようになり、次第に関心は手に移っていく。人間の関心は普通顔に向かい、それは本能的なものでもある。顔は人生が刻まれる事で奥行きが出て、その人らしさを表出する最も魅力的な部位となっていく。それなのに何故木下は「手」に関心がむかったのか?

 「冬は藁草履や藁靴を編んだ。針仕事もした。ハルの作ったものは長持ちすると喜ばれた」

 こんな風に考えてみたい。手は人が能動的に対象に働きかけ、自身のイメージを造形する事で世界と関わる事が出来る唯一の部位なのである、と。例えば人の顔。表情は意を表出する点では能動であるけれども、見られることを前提とする事で受動的な部位である。言葉もまた意を伝えるが、それが直接「もの」を造形するで訳ではない。それが出来るのは手だけである。手によって世界は造形され頑とした客体として据え置かれる。手が使えるようになったから脳が発達し、文化が形成されたと言う事はよく言われるが、諸説あるらしい。だから私も手だけが文化を作ったとは言わない(言葉の役割の方が重要だとおもおうので)。しかし言葉を「もの」の次元に受肉させ目の前の何ものかとして「制作」することが出来るのは、手だけなのである。こんな風に考えてみると実際に手を動かして絵を制作する木下の関心が手に向かったのも分かる気がする。

 「ただ一つの楽しみは年に一度の盆踊りだった。その時ハルは毎晩村の踊り場で踊った。ハルの

 美しい顔や手振りが皆の目を魅いた」

 手は藁草履や藁靴を編み「労働」する。しかし手は美しく舞い踊りもする。それは顔に負けない程美しい。そして手は生活を支える。誰かと手を握り手を繋ぎ、さよならをする。その手は文化を編む。と同時に人生を、思い出を編んだ手なのだ。そして、編まれたものは後代に手渡されていく・・・(表紙の絵の様に)。

 こうして『ハルばあちゃんの手』は様々な角度から考え、1年後5年後、10年後と考えを深める事が出来る絵本である。短いお話なので是非読んでみてほしいと思います。

                              2016年7月4日岡村正敏

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