『地域創生の言葉についての覚書ーケアの観点からの解釈―』 再録
『地域創生の言葉についての覚書ーケアの観点からの解釈―』
地域創生とは良い言葉だと思う。地域の活性化、街おこしという言葉はこれまで盛んに語られてきたが、どうかといえそれは、集客に基づく経済的効果を求める響きがあった。○○グランプリなるものの隆盛はその一端の現われと思えてならない。これは他の地域に抜きん出るといった競争や対抗の図式が根にあるように思えるのであるが、地域創生という言葉の響きはこれとはちょっと違うように感じられるのだ。競争や対立ではなく、自身の力で自身を成り立たせていこうという雰囲気がある。この雰囲気は1970年代から受け継がれる地域主義の、地方分権といった政治のニュアンスともまた違ったものである。自分たちの手で新しい生活文化を築いていこう、というわけである。ベクトルが自身の自己運動へと向かっている。これが私の感じる地方創生と言うキーワードの持つ語感である。しかしまた、地方創生は上からの、政治的な、アベノミクスの言説であることに違いはなく、裏読みすれば「ある程度はしてやるが行政に頼るよりも自分達で何とかしろ、自助努力をしろ」と言っているような気がしないでもない。事実そうなのかもしれないが、今地域に必要な事を見事に言い得ており、「ならば挑戦してやろうではないか!」とあえて思惑に乗ってやってもいいと思ってしまったりする。何であれ地域創生というキーワードは、今必要とされていることを表す、まさにぴったりの響きを持った魅力的な言葉であると思うのである。
話はそれるが、介護職について。介護職は専門職である。しかし私はこれに疑問を感じている。誰かを介護する、とはその生活を総合的に援助する事である(補足1)。その過程において、個々介護技術の専門性は必要なものであっても、それが目的ではないのである。あくまで目的は生活の総合的な援助であり、従って介護職は本来ケア職と呼ばれるべきではないかと考えている。何故ならば「介」して「護る」という「介護」が醸すニュアンスでは、弱者救済のニュアンスを払拭できないからである。一方ケアとは「配慮」「気配り」といった意味であるから、生活を総合的に援助する事を表す字義としてはこちらのほうが適切であると思われる。だから介護職はケア職であり、専門職ではなく総合職でなければならない。そう私は考えている。
ところで私は、人をケアすると言う事と地域を創生すると言う事に、強い親和性を感じるのであるが、他の人達はどうなのだろうか?「それはあなたが社会福祉に関心があるからでしょう?」と言われそうであるが、そういうことではない。そんな気もするのだが微妙に違うような気がする。それは、社会福祉という学問や制度の枠組みに私の関心が押込められ限定されてしまう事への違和感でもあると思う。
とにかく今私は地域創生という言葉には共感を持っているし、これをケアの観点から考えてみる事は出来ないだろうか?と考えてもいる。ただしこれを「総合的に地域をケアする」としてはならないだろう。このような考えはケアするものとされるものを分離し、地域をケアの対象としてしか見ていない。これは行政的な見方である。そうではなく、ケアするものとケアされるものは、同列に並んで相互に作用しあう関係になければならない。「地域」とはもともとそれ自体が総合的なケアの「場」そのものなのである。
では「創生」とはどうであろうか?字義からすれば「創生」とは、人為的な「創る」と、自ずからなる所の「生む」の結合である。これを「創られたネットワーク」と「自然発生的なネットワーク」の結合と読み替えてみてはどうだろうか?社会学者のマッキーバーの集団区分(アソシエーション/コミュニティ)に当てはめれば、「創る」とはアソシエーションであり「生まれる」はコミュニティである。従って「創生」とは双方の結合として理解することが出来る。すると地域創生とは、アソシエーションとコミュニティがケアによって結合される、「場」としての運動である、ということになる。
これまでの内容を整理すると、
・ケアとは総合的な「配慮・気配り」である
・地域創生の「地域」とはそれ自身が自律する「総合的なケアの『場』」である
・地域創生の「創生」とは人為的ネットワークであるアソシエーションと、自生的共感意識で繋がった「コミュニティ」が、結合するといった意味である
・従って地域創生とはアソシエーションとコミュニティがケアによって結びつく自律的
な「場」の運動であるということになる
するとアソシエーションとコミュニティをいかにして結びつけるのか?その方法論と実践の具体性、これが次の課題とならなければならない。可能性としてはNPO法人があがるが、これに問題点はないのだろうか?果たしてそれだけが選択肢なのであろうか?介護制度の利用サービスとして地域密着型小規模多機能施設というものがあるが、これをヒントに何か考えられないだろうか?そんなことを思ったりする。
行政に拠らない・自発的な・地域密着の・個人事業者の兼業活動を原動力とした・小規模多機能な(ミニマルコンプレックスカルチャー)・流動性のある運動体・地域通貨・五酬による交換・アートアンドクラフツ・言論且つ生活の場、というものはありえないだろうか?コンパクトシティの中にさらにコンパクトな、人間の活動の総体を丸ごと体現しているような、活動の場は有り得ないだろうか?具体的な事例として「ホビット村学校」のような形態を考えっているのであるがそのような「コミュニティ×アソシエーション」の場の可能性は、在り得るのではないかと考えている。
補足1 総合的な生活の援助であるとともに、「彼と私が生き、そして存在したのだ」と言う事の証を、世界に刻みこむ言うなのである。共におのおのの人生を創っていく、と言うことの実践である。そう私は考えている。
2015年1月12日 岡村正敏